バレンタイン(St. Valentine's Day)

日本ではバレンタインは男性が女性にチョコレートを送ることになっている。
しかしアメリカでは全然違った。
女性が送っても全然いいし、チョコレートではなく何でも良かった。
要は、贈り物をする日というだけだ。

 

学校でプレゼント交換の時間があったのを覚えている。
小学生のことなので、カードが主だったのではないかと推測する。
greeting cardというやつだったと思う。
確か3年生の時だったと思うが、みんな学校にプレゼントを持って来ていた。
つまり事前にそういう連絡があったのだろう。
僕も何か持って行ったはずだ。
学校で、じゃあこれからプレゼント交換の時間を開始します、はい、ドン!
ということで、全員一斉にプレゼント交換が始まった。
プレゼントが詰まった袋を持って、教室の中をお目当ての相手を探して回るのだ。
プレゼントを渡したい相手も教室の中を探し回っているので、捕まえるのが大変で、本当にカオスだった。
まあでも、そういうのが楽しかったのかもしれない。

何を渡したのかも、何をもらったのかも全然覚えていないが。

ハロウィン(Halloween)

僕のアメリカ滞在は4年に若干満たなかったので、Halloweenは3回体験した。
渡米の日がHalloweenの次の日だったのでギリギリ3回だ。
一番記憶に残っているのは、おそらく最後のHalloweenの時のことだろう。

 

1983年10月31日。
日本の学年では3年生、アメリカでは4年生になったばかり。
この年はアメリカ流に楽しもうということで、lanternを作った。
Halloweenの少し前にかぼちゃ(pumpkin)を買いに行った。
アメリカのかぼちゃを見たことがあるだろうか?
オレンジ色で大きいものは非常に大きい。
日本で見るようなかぼちゃをイメージしてはダメだ。
色も大きさも形も全然違う。
かぼちゃの大きさを競う品評会の写真を見たことがあるが、
とても一人の人間が運べる大きさではなかった。
シンデレラに出て来るかぼちゃの馬車を覚えているだろうか?
アメリカのかぼちゃは冗談ではなく、それくらいの大きさにまで育つのだ。
我が家では手頃な大きさのものを買ってきた。
直径50cm、高さ40cmくらいあったのではなかろうか。
Acana Rd の家に帰ってきて、ガレージに仕舞った車の中から台所まで
かぼちゃを運んだ記憶がある。
当時、体力の限界に近いくらいに感じた。
すぐに体重計で重さを計ったら意外に大したことがなくて拍子抜けした。
具体的な重さは覚えていないが。
わりとキリのいい重さだったはず。

 

lanternを作るには、まず、かぼちゃの上部をくり抜いて、中の種を取り出す。
かぼちゃの上部は蓋になるので、綺麗に穴を開ける。
中身をくり抜いてスッキリしたら、目、鼻、口を切り出して顔を作る。
ちょっと怖い感じに、おどろおどろしい雰囲気に切り出す。
くり抜いたかぼちゃの中にろうそくを入れて、最初に切り取ったかぼちゃの上部を
蓋としてはめ込めば完成だ。
あとは Halloween当日を待つのみ。

 

Halloweenの主役は子供たちと言っていいだろう。
どの家も近所の子供たちが訪問するのを待ち構えて、
お菓子をどっさり買いだめして待っている。
我が家もそうだ。
稀にHalloweenに参加する意思のない家も存在する。
そういう家は明かりを一切合切消して闇に消えている。
見るからに近づいてはいけない家と分かる。
かぼちゃのlanternは家の玄関の近くに置いた。
うちはHalloweenやってますよ!というサインでもあるのだ。
要は「営業中」ということだ。

 

夜になるとボチボチ近所の子供たちがやってくる。
"Trick or treat!"
母がやって来た子供が持っている入れ物にお菓子を入れていた。
一人の白人の女の子のことを覚えている。
女の子が一人でやってきて、母がお菓子を入れたのだが、
実は後ろの道路に親が見張っていたのだ。
何だかんだ言ってもアメリカは油断のならない国なので、
実は親が一緒なのだった。
それが普通なのかどうかは分からない。
母が気付いて指摘していた。僕も見た。

 

よし、こっちも出撃だ!
弟と一緒に近所の家を回った。
お菓子を入れるためのプラスチック製の容器を持参していた。
この容器はかぼちゃのlanternを模したもので、オレンジ色で直径20cmくらいの
球に近い形状で、目、鼻、口のシールが貼ってあったような気がする。
最終的にはこの容器がお菓子で一杯になった。
近所のある家に行った時のことを記憶している。
トントンとドアを鳴らすとドアが開き、家にいたおばさんが出て来たのだが、
そのおばさん、頭にバトミントンのラケットが貫通しているコスチュームだったのだ。
無論、両端のネットと柄の部分だけが本物で、
カチューシャのようなもので固定していただけのはずだ。
でも、家の中からそんな大人が出て来たものだから、ちょっと驚きだ。
うおっ、何?何なの?と固まっていると、すかさず、おばさんが
"I have a headache!"(頭痛がするのよ)
こっちも気を取り直して、
"Trick or treat!"
で、どっさりお菓子をもらった。
近所の家々を回って、最終的には容器一杯の釣果になった。
ホクホク顔で帰宅。
後でゆっくり食べた。
今は日本でも普通に見るsnickersのような類いのお菓子がアメリカには沢山あった。
今覚えているのは milky way くらいか。
milky wayは日本ではまだ見たことがない。
この時はこれが最後のHalloweenになるとは夢にも思わなかっただろう。

 

日本に帰国した後、長らくHalloweenが注目されることはなかった。
一部のコミュニティーではHalloweenを楽しむことはあったのかもしれないが、
日本全体としては注目されることはなかった。
知名度も低かっただろう。
しかし近年渋谷を中心に、Halloweenを楽しむようになっているのは隔世の感がある。
日本では仮装に注目されがちだが、アメリカではメインは子供に対するお菓子のやり取りだ。
仮装の要素もあるにはある。
"Trick or treat!"と言って回る子供たちは軽く仮装していることも多いし、
近所の家を訪問すると、家の奥で人々が仮装しているのが見えることもある。
中でパーティーでもやっているのだろう。
この一連のイベントの中で、仮装の部分だけが数十年後に日本に入って来るとは全く想像できなかった。

学校の掃除

日本では教室の掃除を生徒が行う。
しかしアメリカでは生徒が掃除をすることはなかった。
掃除をする専門(かどうかは分からないが)そういう従業員がいた。
当時はcustodianと呼んでいた。
今、辞書で調べると、管理人、守衛という訳が出て来るが、僕にはしっくりこない。
管理人、守衛と聞くと立派な雰囲気だが、ただの掃除屋だ。

 

これで終わっては短いので、トイレの話でも書こう。
アメリカのトイレには、手を洗った後に水を拭うための紙が必ず設置されていた。
今では日本でも時々見るが、アメリカでは必ず紙で拭う。
茶色いわら半紙のような紙だ。(おそらく再生紙
その紙がティッシュのように出て来るステンレス製の箱が下向きに設置されていた。
そして、その紙を捨てるドラム缶のように大きなゴミ箱が必ずあった。
今はもしかしたら風で吹き飛ばす hand dryer に置き換わっているのかもしれない。

 

大便をする個室はドアの下の方が大きく空いていたように思う。
だから殆ど利用したことはない。
この当時の便座はステンレス製だったような気がする。

音楽の授業

アメリカの小学校には、全員必修の音楽の授業はなかった。
希望者にだけ、特別に音楽の授業があった。
僕は親の方針でその特別な音楽の授業を受けていた。

Vista Grande School でのことだ。
音楽の授業とは、日本によくある声楽ではなく、バイオリンだった。
全員がバイオリンという訳ではなかった。
チェロの人やコントラバスの人もいた。
どういう経緯でか、僕はバイオリンを弾くことになった。
中古でいいのに、親が新品のバイオリンを買ってくれた。
家に持ち帰って試してみると音が出なくて驚いた。
物が擦れる音しかしない。
その後知ったのは、松脂を塗らないと音が出ないということ。
弓に張った馬の毛(クジラと聞いたような気もする)に松脂を塗って初めて音が出る。
どうしてこんなにも音が変わるのか、不思議なくらいだ。
松脂なしだと擦れる音だけだ。
それなのに、松脂を付けると大きく澄んで綺麗な音になる。

 

授業では、先生はよくお手本として音を出していた。
この音を出して、という訳だ。
しかしいつも指、というか手全体を震わせてビブラートを効かせていた。
生徒側はビブラートなしの単調な音しか出せないので、合っているのかどうかすらよく分からない。
そのビブラート止めて欲しいといつも思っていた。
先生は、ほら、この音!この音!と言ってはビブラート付きの音を出すのだが、こっちはビブラートなし。
この音って、どの音よ?と聞き返したかった。
そこばっかり気になっていた。
結局、バイオリンは身に付かなかった。

算数の授業

日本ではどの授業もクラス全体で進める。
理解力の高い生徒と低い生徒の両方に配慮しながら、クラス全体を対象に進める。
横並びが公平ということなのだろう。
アメリカでは、算数は少人数制だった。転校前も後も少人数制だった。
その生徒の理解度に合った課題を勉強させるのが公平という考え方だった。
年度の始めに5,6人くらいのグループ5つくらいにあらかじめ分け、
各グループを順番に呼び出しては説明と指示を出すということを繰り返す。
先生に呼び出されていない間は自習時間になる。
なので、算数の授業時間の大半は自習時間になる。

 

おそらく3年生の時だったと思う。自分のグループに名前を付けるように先生に言われた。
すると、僕のグループの誰かが"Eagles!"と即答し、それに決まった。
eagle、つまり鷲はアメリカの象徴的な動物だ。
紙幣や硬貨にもデザインされているし、アポロ計画の月着陸船も"eagle"だ。
1ドル紙幣にあしらわれている鷲の足が握りしめている矢の本数は、確か独立時の州の数と同じ13本というこだわりだ。
鷲はアメリカでは頻繁に目にする機会がある。
なるほど、アメリカ人は鷲が好きなんだなと思ったので、3年生の時の算数のグループ名だけ記憶している。

 

飛び級も普通にあった。
日本では滅多に聞かない。
というか、小学校ではまずないだろう。
全員横並びが公平なのだ。
アメリカの小学校では普通に飛び級があった。
全校生徒レベルで見れば数人程度はいたと思う。
その生徒のレベルに合わせた学習こそが公平という考え方だった。

車窓の記憶

僕には写真のように記憶している風景がある。
その中には車の中からの記憶もある。
明確に覚えている記憶の一つは、Loftyview Dr.時代に車から見た自家用飛行機の空港だ。
GoogleMapで調べたら、Zamperini Field Airport という空港らしい。
今地図で見ると、Pacific Coast Hwyの1本隣りの道路に入らないと
空港を直接見ることはできないようだが、40年前はPacific Coast Hwyのすぐ脇まで
空港の敷地になっていた。
Pacific Coast Hwyを北西に向かって(家から遠ざかるように)走ると、
右側通行なので右の車窓のすぐ目の前に自家用飛行機がずらっと並んでいた。
さすがに敷地との境界にはフェンスがあったが、フェンスのすぐ向こうに飛行機が並んでいた。
それはもう延々と並んでいた。
それを車の中から眺めるのが好きだった。
自家用機を所有している富豪がたくさんいたのだろう。
地図で見るとWalteria Elementary Schoolのすぐそばなのは意外だ。

 

もう一つ、はっきり記憶している風景は、飲酒運転だ。
Downtownに向かう道路は片側4,5車線はあった。
小型飛行機なら緊急着陸できそうな幅がある。
自家用機なら余裕で着陸できるだろう。
そんな道路で信号待ちしていたところ、右隣りのレーンに停車した車を
運転していた男があからさまに飲酒運転していた。
当時、飲酒運転はたまに見かけた。
日本よりは断然多かったと思う。
バレなければOKという感覚だったのか。人によるのだろうが。
しかしその男はあまりにもあからさまだった。
そういう意味では珍しかったかもしれない。
ウイスキーを入れる容器(調べてみたらスキットルというらしい。
他にも色々な言い方があるようだ。)から直接クイックイッとやっている。
全く悪びれるところがない。
そして、左側(こちら側)の運転席の窓を全開にして、
Hey!という感じで積極的に話しかけてくる。
今にして思えば助手席の母にちょっかいを出していたのだろう。
子供の僕にとっては、あっ、陽気なおっちゃんだ!ということで手を振ったりした。
今のアメリカにはどのくらい飲酒運転があるのだろうか?

 

ある時、車に乗っていると、対向車の中の1台の車がヘッドライトをピカピカと
点灯と消灯を繰り返していた。
何だ、今のは?と思っていると、警察の車両が見えてきた。
要は、警察がいるからみんな注意しろ、ということだったのだ。
アメリカ人って粋な人が多い。
かつての江戸っ子もこういう人達だったのかもと思わせる。
ところで、警察の英訳は?と聞かれたらどう答えるだろうか?
恐らく多くの人は"police"という単語を連想するのではなかろうか。
僕にはそれはちょっと畏まった表現に聞こえる。
警察官は"cop"が一番しっくりくる。
でも警官には"cop"とはあまり言わないかも。
不思議なもので。"police officer"かな。

 

地図を見ていて思い出したが、Loftyview Dr.からPacific Coast Hwyに向かって
降りている途中にCrest Rd.という道路がある。
夜にこの道路を下ると、正面の夜景が綺麗だった。
Crest Rd. を下りきるとPacific Coast Hwyだったように記憶していたがそれは違い、
Crenshaw Blvdを経てPacific Coast Hwyのようだ。
やはり40年も経つと記憶が怪しい。
下りきった辺りにmarketと格安映画館があったように思うが、どこだったんだろう?

 

父は自動車会社に勤めており、自動車で出勤していた。
時々いつもと違う自動車で帰宅することがあり、色々な車に乗る機会があった。
280ZXにも300ZXにも乗った。
中でも忘れられないのは、トラックに乗ったことだ。
トラックの荷台に乗って町中に出ていったことがあった。
交差点で曲がると、荷台には掴むところがないのでコロコロと転がった。
遠心力が強いとちょっと怖かったが楽しかった。
トラックに乗る機会はさほど多くないので、おそらくこの時だろう。
運転席と助手席の後ろにちょっとしたスペースがあったのを覚えている。

 

いろいろと車窓の記憶をたどってみると、当時僕は後部座席の右側が定位置だったように思う。
助手席の後ろだ。
記憶の中の写真は右後ろからの風景が多い。
左前の運転席は父、右前の助手席は母、運転席の後ろは弟、助手席の後ろは僕だ。

日本人学校、あさひ学園

アメリカにいる間、あさひ学園という日本人学校にも通った。
想像するに、日本人の子供に日本語の教育を受けさせたいという需要が在米邦人の間に元々あった。
ところで、アメリカの学校は当時から週休二日制だったのに対し、日本の学校は当時は週休一日制だった。
なので、アメリカの学校に通っていると土日が休みだが、
日本人の感覚では土曜日も学校があってもよかった。
そこで、土曜日だけ日本人向けに日本語の授業をやってくれる学校として、あさひ学園が誕生した。
これは全米に存在するのか、どれほどの広がりを持ったものなのかは全然知らない。
このあさひ学園、実は校舎はない。
アメリカの学校を借りて授業を行っていた。
元々土曜日だけ授業をするコンセプトなので、それで丁度良い。
というわけで、月から金曜日までは普通にアメリカ人用の学校として使っている校舎を
土曜日だけ拝借して、日本人向けの授業を行うあさひ学園があった。

 

校舎はアメリカのごく普通の中学か高校を借りていた。
自分が通っていた小学校と比べると雰囲気が違っていたので小学校ではないと思う。
平日はアメリカ人用の普通の高校なので、掲示物などはその高校の生徒用のままだ。
その掲示物は触ってはいけないと言われていた。
僕の頼りない記憶では、1980年から84年の間に1度、あさひ学園用に使う校舎が変更になったように記憶している。
よりよく覚えているのは最初の校舎の方だ。
机とイスが一体化した席が1つ1つ独立して整然と並んでいた。
小学校のように隣りの席とくっつけてグループを作ることもなかった。
(このような席の並べ方と、掲示物の内容が大人びていたのが小学校ではないと感じる理由だ)
極力あるがまま、現状のまま利用していた。

 

という訳で、平日は最寄りのアメリカの学校に通い、
土曜日だけあさひ学園という日本人学校に通った。
あさひ学園には親の運転する車で通った。帰りもだ。

 

僕は渡米した時は幼稚園の年長だった。
だからそれから5か月ほどしてから、あさひ学園の1年生に入学したはず。
何かが気に入らなくて、入学前には親を困らせるようなことを言った気がするが、
あさひ学園に通い始めてみると、大好きになった。
それなりに努力していたつもりだ。
先生が良かったのだろうか?
確か1年生の時の担任は、和田先生という年季の入った女性だった。
確か、和田先生の娘さんもあさひ学園の先生をしていると聞いた気がするので、
和田先生は定年間近だったのではないだろうか。
風貌などはさっぱり覚えていない。
1年生のとき、森さんという非常に真面目な女の子が同じクラスにいた。
何となく雰囲気を覚えている。
彼女は漢字のテストで、いつも成績が良かった気がする。
それから、授業中にオシッコを漏らしてしまった女の子がいたことを覚えている。
借り物の校舎なので、先生たちが必死になって掃除していた。
何年生の時かは覚えていないが、
僕の教室のすぐ目の前の屋外は、左カーブしながら登り坂になっていたことを覚えている。
この坂で学校を特定できないかなと思っているが、どうだろうか?
クラスメイトの中に、太陽に電池のプラス極を向けると充電できると主張している人がいた。
太陽の直射日光を浴びながら、プラス極とマイナス極を結ぶ軸のプラス極側を太陽に向けていた。
銃の照準を合わせるように、熱心に太陽に向けていた。
そのクラスメイトは、その左カーブの坂を利用して休み時間に電池を太陽に向けていた。
今にして思うと、もしかして光電効果を知っていたのか?と思わないでもないが、
一体どこでそういう情報を仕込んだんだろう?
他には、休み時間にゲームウオッチをしていた人が結構いたのを覚えている。
当時はゲームウオッチが大流行していた。
そんな中、クラスメイトに
山田邦子松田聖子、どっちが好き?と聞かれたことがあった。
僕は日本にいた頃から芸能界に全く興味を持っていなかったので返答に窮した。
(日本にいた頃は、芸能よりコンバトラVなどの戦隊ロボットや、電車命だった)
山田邦子松田聖子も、どっちも何も知らなかったのだ。
シールの柄になることもある人気キャラクタという程度の認識だった。
シールの柄にしても、戦隊ロボットの方が上で、芸能人のシールは無価値の存在だった。
二択以外の答えを許さないという雰囲気だったと思うが、何と答えたんだろう?
覚えていない。
適当に答えたと思う。
日本に帰国してから、テレビを見ていて、
あの時聞かれた山田邦子ってこの人か!と思ったくらい、芸能界に疎かった。

 

あさひ学園の先生のことで、他によく覚えているのは、4年生の時の担任だ。
今の僕よりも若い女性だったと思う。
名前は憶えていない。
この先生については帰国の時のエピソードとともに、後で書こうと思う。
その他の先生で覚えているのは、木村ミゲオ先生という理科の先生だ。
この先生だけ、フルネームで覚えている。
名前が変わっていたからだ。
確かに本人が黒板に「ミゲオ」とカタカナで名前を書いたと記憶している。
故あってあさひ学園ではカタカナにしていたのか、戸籍の名前もカタカナなのかは知らない。
だが、カタカナの名前が気になってしまって今でも覚えている。
授業の様子、年齢、風貌などは覚えていない。

 

ここまで書いた所で、Wikipediaで調べたら「あさひ学園」が載っているではないか!
あさひ学園はLos Angelesだけのものらしい。
複数のキャンパスがあさひ学園に使われていたようだが、
僕は Torrance High School に通っていたのかもしれない。
しかし衛星写真を見ても全然ピンと来なかった。
そもそも教室があったのはどの建物なのかすら分からなかった。
それから、西田ひかるもあさひ学園出身というのには驚いた。
僕がアメリカにいた4年間は完全に重なっている。
西田ひかるは2つ学年が上だが、4年間は共に小学生だったので、
あさひ学園ですれ違った可能性くらいはあるということだ。
もしかしたら、あさひ学園の先生の話題で西田ひかるとは盛り上がれるのかもしれない。
あと、僕は全然知らない人だが、
マシ・オカという俳優かつアーティストがあさひ学園出身らしい。
僕が通った4年間は重なっている。しかも同学年!
ということは、1年くらいクラスメイトになっていたことがあるのかもしれない。
えー、もしかして君、休み時間に電池を太陽に向けてなかったかい?w

 

なんと、あさひ学園のホームページもあるではないか!
沿革を見ると、1980年から84年の間に何度かトーランス校を移転している。
やっぱりそうか!
僕の記憶力も満更捨てたものではないな。