渡米前

私は1980年から84年までの4年間、Los Angelesにいた。
渡米当時6歳、幼稚園の年長組だった。
今回は初回なので、渡米までの記憶を書き留めることにする。

 

私の一番最初の記憶はせんげん台のアパートの記憶だ。
夜中に目が覚めたら両親がいなくて、すごく不安な気持ちになったことを記憶している。
窓から外を見たら夜で、電灯が所々付いている以外は、吸い込まれるような漆黒の世界だった。

 

幼稚園は越谷市の大沢幼稚園だった。
年少組は1階で、年長組が2階だったはず。
1階の年少組では、教室の戸を開けるとすぐ花壇があって、校庭につながっていたように記憶している。
とだけ書いてしまうと普通だが、そう、下駄箱に行ったりはしなかったと思う。
年長のとき、雨が降って外に出られなかったことがあった。
その時、教室にあったちょっと厚手の紙でみんなで紙鉄砲を折ってバンバン鳴らせたことがあった。
ちょっと厚手なので、開いた時の音が大きいのだ。
調子に乗って、椅子に乗っては飛び降りながら紙鉄砲を鳴らせた。
勢いがついて音も大きくなったのだ。
みんなで繰り返し椅子に乗ってはバンバン鳴らせたのは楽しかった。
調べてみると、今でも大沢幼稚園はあるようだ。
2階建てだし、間違いないのだろうが、いまいちピンとはこなかった。

 

自宅のマンションの隣りの敷地はバスの車庫のような土地で、広い空き地があった。
自宅の敷地のように自由に勝手に出入りしていた。
バッタやカマキリなどの昆虫がたくさんいた。
いつも水たまりというか池があって、そこにヤゴがいた。
当時はヤゴが大好きだった。
お尻から水を噴出させながら前進するのがロケットのようで好きだった。
たくさん捕まえた。
でも水生昆虫を飼えるような容器を持っていなかったので、逃がすしかなかった。
家の周りにはザリガニもいた。
用水路にザリガニがたくさんいた。
しかし用水路の水はあまり綺麗ではなかった。
家から少し離れた所に小さな水路があり、水がまだ綺麗だった。
そこでザリガニをたくさん捕まえたこともあった。
しかし家で飼うことはできないので、結局は逃がすしかなかった。
例外的にカマキリとカエルを飼ったことがあったが、結局死なせてしまった。
カマキリは中途半端な卵(?)らしきものを残したが、孵ることはなかった。
生き物を飼うことに慎重になったのはこの頃の記憶があるからだ。

あんなに身近にヤゴがいたのに、渡米後は全く見る機会がなくなった。
それは帰国後も同じだ。
帰国後はバッタやカマキリには再会したが、ヤゴを見ることはなかった。
ヤゴがいた池がなくなってしまったのだ。
最近になって、自然の里みたいな保護センターで何十年ぶりかでヤゴを見たが、捕まえられないし、少年の頃のような感動はもはや味わうことはできなかった。


渡米が決まった時、幼稚園の年長組だった。
幼稚園を辞めることになり、幼稚園の先生に確かライディーンのハンカチをもらった。
当時、ライディーンやコンバトラVのような戦隊ロボットもののアニメが大好きだった。
おそらく先生はそれを知っていたのだろう。戦隊ロボットのハンカチを餞別に頂いた。
いや、先生は男の子たちが戦隊ロボットが好きなのを知っていて、無難な選択をしたのかもしれない。
まあ、でも、今に至るまで覚えているので、かなり嬉しかったのだろう。
男の子にとって、当時は戦隊ロボット全盛の時代だった。
しかし、気が付いてみれば戦隊ロボットは全く見なくなった。
大学生の時、家庭教師をしていたが、子供と一緒に流行りのポケモンを見る機会がちょくちょくあった。
見ながら、平和になったなあ、とつくづく思った。
昔のアニメはいつも地球を救うとか、悪と戦うとか、そんなストーリーだった。

今にして思うと、何でこういうアニメに熱中していたのか、よく分からない。

 

渡米が決まる前後に、父の会社に行ったことを覚えている。
父の仕事の同僚だろう、大人が入れ替わり立ち替わり話し掛けてきた。
もしかしたら、その後社長になった人もいたのかもしれない。
何の話をしたのかは覚えていない。
ただ、大きなミニカーをもらったことは覚えている。
当時普通のミニカーは小さかった。片手の中に納まる程度の大きさだ。
しかしこの時もらったミニカーは後にも先にも見たことのない大きなミニカーだった。
ミニではない。特大ミニカーだ。