立川はるみ

フルネームは伏せようかとも思ったが、今は姓が変わっているだろうから、名前だけ平仮名にしておいた。
彼女とは同学年で、父同士が同じ会社の同僚だった。
今でも彼女の顔や雰囲気は覚えている。
僕が渡米した時には既に立川一家は渡米していて、僕が帰国した後もアメリカに残った。
つまり、僕よりもずっと長くアメリカに滞在した。
僕は今や英語がボロボロな状態だが、彼女は今でもずっと流暢に話せるだろう。
(先日自分の発表を録画する必要があり、その時自分の録画を聞いて自分の英語に心底落胆した)
父同士が同じ会社の同僚なので、ちょくちょく顔を合わせる機会があった。
会社の仕事や行事で同じタイミングで家を空けるとき、
同じ babysitter に預けられることも多かった。
そういう時は、同じ立場の子供たちが大勢一緒ということも多かった。
babysitterについては別途書く。

 

彼女との最初の記憶は、渡米直後に立川一家と会ったときのことだ。
大人たちが離れて2人きりになるタイミングがあった。
(何かアドバイスしてあげて、と大人の誰かが指示していたように記憶している。)
その時、アメリカ生活のアドバイス的な話しを聞いた記憶がある。
その内容は残念ながら全く覚えていない。
覚えていれば、さぞかし興味深かっただろう。

彼女の家に遊びに行ったこともあった。
もしかしたら別の人の家だった可能性もあるが、今イメージしている家だとすれば
少しだけ家の中のレイアウトを覚えている。
台所とダイニングが一体化した空間をリビングのように使っていた。
本来のリビングは別にあった。
台所脇に雀卓を置いていた気がする。

 

彼女の家に遊びに行ったときのこと。
スカートをおっぴろげて、中を覗いて見たい?見たいだろう?ホラホラ、というように挑発していたことがあった。
じゃあ見ちゃうよと、挑発に乗って覗き見しようとしたら、
サッとスカートを閉じて中を見せないということを何度かされた。
ナニ?何としてでも見てやる!という気になった。
スカートの中に興味がない風を装っておいて、彼女の気が他所に散っている瞬間に
サッとスカートの中を覗き見した。
覗かれていることにすら、彼女はしばらく気付いていなかった。
バッチリ見たはずだが、どんな下着だったかは結局さっぱり覚えていない。
何だかいつも肝心なことを覚えてないなあ。

 

僕の一家は人足先に帰国したが、その後彼女の一家も帰国した。
確か法政大学に入学したと聞いた気がする。
彼女には少し年の離れた妹がいたが、
帰国後も忘れられない彼氏がアメリカにいて、一人で再度渡米したと聞いた気がする。
その後のことは知らない。
どうなったことやら。

Kenneth

彼はハワイ出身で、僕と仲が良かった。
彼とはよく遊んだ。
うちにもよく遊びに来たし、彼の家にも遊びに行った記憶がある。
でも、何をして遊んだのかは全然覚えていない。
ただ、Kennethのことではっきり覚えていることが一つある。
それは、オレンジ色の野球ボールのようなデザインのおもちゃを食べてしまったことだ。

 

このボールは直径3cmくらいの球だった。
確か、最初の学校、つまり Walteria Elementary Schoolのfestivalで、
何かに挑戦した景品としてもらった物だったと記憶している。
オレンジ色の球に白い線が入っていた。
オレンジ色の布を白い糸で縫い合わせた野球用ボールのようなデザインだった。
あくまでもデザインであって、木か何かで出来た固いボールに見えた。
直径3cmということで、ボールとして使うには小さすぎた。
何に使うのか分からなかったので、おもちゃだと思って転がしたりしていた。
カーペットで転がすことも多かったので、舐めるなんてとんでもない状態だった。
その後、引越もあり、転校もした。
つまり数年間はそういう扱い方をしていた。

 

そんな中、KennethがAcana Rd.のうちに遊びに来て、
このオレンジ色のボールを見るなり、
「これはガムじゃないか。食べてもいいか?」
と言うのだ。
ガム?ウソだろ・・・食べる?マジで?
と思っていたら、彼はパクッと食べてしまった!
ちゃんとクチャクチャやっている。
口を開けさせて確認した。
やっぱりガムだったのだ!
食べる?と言って、彼は一旦口から出しすらした。
当然、いらないと言った。
僕は驚きのあまり、母に知らせに行った気がする。
衛生的にはかなり問題があったはず。
でも、彼が腹を下したという話も聞かなかったし、美味しく食べたはず。

木下匠(きのした たくみ)君

「たくみ」は、もしかしたら「巧」の字だったかもしれない。
鼻の下に何か特徴があった。
今にして思うと、アトピーだったのだと思う。

 

彼の家のすぐ隣りは崖になっていて、ちょっと怖い立地だった。
かなり奥まった場所にあったと思う。
車で行っても、着きそうでなかなか到着しなかった。
家の前の木にブランコか何かが下がっていた。

 

木下君の家ではコリー犬を飼っていた。
額に白い一筋の毛が生えていた。
コリーは必ずしも額に白い毛があるわけではなく、
額に白い毛があるコリーは賢いのだと木下君は言っていた。

そう言われると、確かに賢く見えた。

 

木下君が作っていた?作りかけていた?プラモデルを借りて、
僕が完成させたか、とにかく手を加えたのを覚えている。
言っては悪いが、木下君はあまり手が器用ではなかったと思う。
正直に言おう、僕が自分でプラモデルをいじりたかったのだ。
確か日本丸のプラモデルだったはず。
スクリューをモーターで回転できるプラモデルだったと思う。
スクリューが付いていたのは別のプラモデルだったかもしれない。
そんな気がしてきた。
モーターで動かせる船のプラモデルがこの世にあることに衝撃を受けて、
プラモデルを完成させる名目で、僕も遊びたかったのだ。

そうそう、スクリューが付いていたのは戦艦大和のプラモデルで、
3つある主砲の砲塔の1つを回転させると、それがスイッチになってスクリューが回転する仕組みだったはず。
でも、木下君が不器用と感じたのは事実だ。
帆船日本丸の随所に這わせるロープ(に見立てた糸)にセメダインがダマになって
固まっていたのを記憶している。
僕が組み立てたら、こんなことにはならないぞと思った。

 

木下君も同じVista Grande School だったのだろうか?
あまり学校で会ったり話したりした記憶がないのだが。

 

後年、日本に帰国したあと、母が日本の新聞記事で木下君の記事を見つけた。
木下君がゴルフで活躍しているという記事だった。
アメリカで活躍している日本人として取り上げた記事だったと思う。
記事には写真があり、その写真に写っているのは間違いなく木下君だった。
わざわざ日本の新聞で取り上げられたのだから、結構な活躍だったのではないか?
当時、彼からゴルフの話が出たことがあったかな?
よく覚えていない。
今でもゴルフをやっているのだろうか?

瀬戸君

瀬戸君もVista Grande Schoolで同学年だった。

 

瀬戸君も写真のように記憶している映像があるが、殆どは校庭でTetherballで遊んでいる記憶だ。
短パンで丸っこい顔で頬などはツルツルしていた。
いつもニコニコしていた。
アンパンマンのようなイメージだ。(当時はアンパンマンを知らなかったが。)
当時は皆短パンだった。
彼の笑顔は悪意ゼロのニコニコ顔だった。

 

だが、昼食費の支払いでズルをしていたことを記憶している。
当時、昼食は1食 $1.25。1ドル札と25セント硬貨(quarter)で支払う人が多かった。
1ドル札を入れる箱と、25セント硬貨を入れる箱があり、自分でその箱に入れていた(というか、置く。箱に蓋はなかった)。
近くに大人がいたとは思うが、大人に渡すのではなく、自分で箱に入れていた。
瀬戸君はそれを悪用し、25セント硬貨の代わりに1セント硬貨(penny)3枚を叩き付けるように勢いよく箱に入れ、誤魔化していた。
penny 3枚あれば25セント硬貨並みに音が出るのでバレないのだと言っていた。
いつもという訳ではなかったと思うが、そういうことがあった。
瀬戸君にはそういういたずら好きな面があった。

渡辺ともき君

彼もVista Grande School で同学年だった。

 

お父さんが日航パイロットで、面白い話をいろいろ聞いた。
その中で明確に覚えているのは、羽田沖墜落事故のことだ。
当時は「羽田沖」なんて言葉は知らなかったが。
不謹慎と受け取る人もいるかもしれないので詳しくは書かないが、事故の原因についても、機長や副機長のセリフを再現しながら聞いた。
Tetherballのコートの横だったように記憶している。
当時は渡辺君の言うことは何でも信用していたが、日本に帰国し成長するに連れて、
そんな事故が本当にあるのかという気持ちも出ていた。
そんな頃、何かのテレビ番組で事故に触れていて、やっぱり本当だったんだと知った。
今でも羽田沖の事故について聞くと、渡辺君のことを思い出す。

 

渡辺君のお父さんがパイロットなので、普通であればアメリカに持ち込みにくいものも簡単に持ち込めると何度も聞いた。
その一例としてはっきり覚えているのは、ホオズキだ。
浅草(?)の縁日で購入し、そのままパイロットの権限でアメリカに持ち込んだとのこと。
そのホオズキは渡辺君の家で実際に見せてもらった。
鉢にツル性植物を支えるための支柱数本と輪っかが固定されてあり、その中にホオズキが植わっていた。
そのような鉢が数個あった。
世の中にこんな植物があるのかと驚いた。
ホオズキの実を取り、中の種などを取り去り、ピンポン玉のようにして遊んだような気がする。
もしかすると、渡辺君がそうやって遊んだと聞いただけかもしれない。

 

飼っていたハムスターが子供を産んだあと、渡辺君に一匹引き取ってもらったことがあった。
しばらくして渡辺君の家に遊びに行ったとき、そのハムスターが巨大化していたのを記憶している。
渡辺君の家は裕福で育ちがいい印象がある。
渡辺君自身いつもブランドものの服を着ていたイメージだ。
例えばラコステ上着みたいな。(あくまでもイメージ)
ハムスターのケージもうちのより倍くらい広く、日曜大工で自作したような木製のケージだった。
エサもたらふく食べていたのではないだろうか。
うちで飼っていた両親ハムスターよりも一回り以上は巨大化していた。
ハムスターも育ちが良かった。

 

確か、大坂の枚方に帰国した。
それを知っているということは、渡辺一家の方が先に帰国したのかもしれない。
手紙を出した記憶があるが、返事が来たかどうかは覚えていない。

竹嶋学

この辺りで、当時の友達を紹介しておこう。

 

アメリカ人はGuckoo(ちなみにアクセントは後ろ)と呼んでいた。
この綴りは当て字で、英語風に書くとこんな感じという程度の綴りだ。
発音記号で書くと、[gʌkú:] だろう。
アメリカにいた当時(おそらく後半の2年だけだが)、最大の親友だった。
何故か僕はエスキモーを連想していた。
少なくとも4年生の時は同じクラスだった。
写真で撮ったような記憶がいくつかあるが、記憶の中の学はいつも短パン。
いや、当時は皆、短パンだったのではないか。
彼は勉強も遊びも一生懸命だったイメージがある。

 

前にも書いた、Tetherballという競技の強豪だったように思う。
Tetherball というのは、
地面に立ったpoleの上端から垂れ下がった紐の先ににボールが付いた器具で、
校庭に4つほどあり、昼休みによく遊んだ。
2人で遊ぶ対戦型の競技だ。
ポールを投げて紐をポールに最後まで巻き付けきれば勝負が付く。
自分の陣地にボールが来た時にキャッチすれば攻撃できる。
攻撃は、陣地によって決まる回転方向にボールを投げて紐をpoleに巻き付けることである。
相手は逆方向にボールを投げてpoleに巻き付けようとする。
相手の攻撃をブロックしてボールをキャッチし、自分の向きにボールを投げる。
相手のブロックを突き抜けるくらい強く、タイミング良く投げる。
紐が巻き付ききって、poleにボールが接触したら勝ちだ。
この競技で遊ぶ、短パン姿の学が目に焼き付いている。
学は強かった。
僕は正攻法ではなかなか学に勝てないので、笑わせるとか、不意を衝くとか、
そんなことばかり考えていた。
学はボールを投げるとき、全身の力をこめて、渾身のボールを投げる。
その瞬間に力が萎えるような非常手段を考えていた。

 

最大の親友だが、どこかでライバル心もあった。
Vista Grande Schoolには"Super Citizen of the Month"という賞の表彰があった。
要は月間MVPだ。
教室の中で生徒どうしの間で数人推薦し、最終的には投票によって、その月の表彰者を決める。
一度表彰されると翌月からは対象外になる。
ある月、学が表彰された。
いつも一緒に過ごしているのに、何故学が?
そんな気持ちになった。
ちょっとした嫉妬心があったのだろう。
その数ヶ月後、今度は僕が表彰された。
学に追いつき、並んだ気分になった。
学とはいつも一緒に行動していたが、ちょっと先を行っていたのかもしれない。

確か学だったと思うが、日本の歌よりもアメリカの歌の方が好きだと言っていた。
その理由として、日本の歌は歌詞に情報量が少ないという意味のことを言っていた。
英語だと1音譜に1 syllableが割り当てられるが、日本語だと多くの場合1音譜に仮名で1字が割り当てられる。
すると、自然に内容的には短い歌詞になってしまう。
同じテンポで歌うと、意味的にはゆっくりした流れになってしまい、それが不満だと言っていた。

 

学はタイプライターを持っていた。
行末に達すると、チン!ガーッと音が鳴って次の行の頭に戻って来た。
キーを押すとハンマーが飛び出して紙に印字する物理的な仕組みが丸見えで、なかなか楽しかった。
当時のタイプライターは、活字の付いた金属のハンマーがカーボンを叩いて紙に印字する仕組みだった。
ハンマーは、球場の客席のように整然と並んでいる。半円形の球場だ。
キーを押すと客席からぴょこっと飛び出して、球場の中央にあるカーボンとその裏の紙面を叩く。
どのキーを押してもハンマーは球場の中央に殺到する。
キーを2つ同時に押すと、2本のハンマーは衝突してしまう。
押すタイミングが近すぎても同様だ。そういう様子が物理的に見えるのが面白くて結構遊んだ。
現在のパソコンのキーボードは、当時のタイプライターの配列をそのまま引き継いでいる。

 

確か学の家だったと思うが、ウサギを飼っていたと思う。
ガレージの中でウサギと遊んだ記憶がある。
逃げ出しそうになって、学が捕まえたことがあった気がする。

 

学の家は、玄関を入って右側が廊下になっていて、その廊下の右側に学の部屋があった。
ドアを入って部屋の正面の窓からガレージ前の空間と道路が見通せた。
その窓のある壁に机があって、(その机にタイプライターもあった)
向かって左側にベッドがあった。

 

学の部屋のレイアウトを覚えている(記憶の写真をいっぱい撮った)理由とも関連するのだが、
学とは大きな心残りがあるが、それは後ほど触れたいと思う。

クリスマス

今日はクリスマス・イブということで、クリスマスに関連した記憶を発掘しました。

 

僕は結構長い間、サンタクロースの存在を信じていたと思う。
毎年靴下というか、おもちゃのブーツの中にプレゼントが入っていた。
アメリカの家には暖炉があったが、そこから人が入ってくるとは思えず、
マユツバな状況はよく認識していたが、かと言ってサンタでなかったとしたら誰なのか?
現にプレゼントを贈られているこの状況をどう解釈したらいいのか、説明が付かなかった。
今年こそサンタを見てやる!と思って意気込んでも、結局は毎年寝てしまっていた。

 

ある日、弟が両親の寝室のクローゼットから未来のプレゼントらしきものを発見。
「サンタは親だよ」と耳打ちした。
おいおいおい、大胆なことを言うやつだな、ハハハ。そんなことがあるわけ・・・あるのかな?
それでも半信半疑だった。
そもそも何でお前は両親のクローゼットを漁ってんだよ!と思っていた。
どこで発見したんだ?説明せい!ということで調査兵団を派遣。
んー、確かにプレゼントっぽい・・・
弟の方がシビアに現実を見ていたのかもしれない。